アクセス解析
再発見!勝 海舟  墨田区のトータル情報サイト『アベニュー』
お問い合せ

トップ−再発見!篠塚子育地蔵尊


第2回 勝 海舟
江戸のまちを救ったすみだの偉人

 我が町、すみだにゆかりのある偉人、有名人は大勢いますが、世界に誇る画家の葛飾北斎(いずれ、特集致します)と勝海舟がその双璧でしょう。江戸の町を戦火から守った勝海舟の偉業は上野に立派な銅像のある西郷さんに較べると一般庶民には馴染みが薄く墨田区民には大変残念な事です。
 勝海舟は1823年1月30日に本所亀沢町(現在の両国4丁目)に生まれました。
幼名は麟太郎。父の勝小吉はユニークな人情厚い情熱人で麟太郎が幼少時に犬に噛まれて生命の危機の際には本所の能勢妙見堂で水行し70日間抱寝をして看病したそうです。その父に11歳から剣術を学び16歳で浅草新堀の島田虎之助道場に通い21歳で師範代に。禅学を向島の弘福寺で学び文武両道に優れ、剣術と座禅修業で後の難局を乗り越える虚心坦懐の境地を会得したと云われています。
 22歳で佐久間象山の砲術塾に入門、後に妹が象山と結婚して義兄弟に。
 ペリー来航の1853年7月、幕府に「海防意見書」を提出。1855年3月に日米和親条約が締結、長い鎖国で国際社会と孤立状態の国は動揺が大きく、幕府は安政の大獄(吉田松陰・橋本左内などが処刑)に端を発し桜田門外の変が起き幕末の日本は夜明け前の混乱の極みでした。
 そんな時代、長崎で航海術を学び1860年1月に咸臨丸でジョン万次郎を通訳として福沢諭吉など96名とともに渡米。幕藩体制では世界の荒波に立ち向かえないと強い危機感と進歩的な考えで大局を見つめていました。

江戸城無血開城
 講武所砲術師範、軍艦操連所頭取、軍艦奉行、従五位下安房の守と要職にあり、坂本竜馬も門下生の一人でした。
 1868年1月に陸軍総裁になり、3月13日西郷隆盛と会見、3月14日、「江戸城無血開城」を決定、4月11日江戸城引き渡し終了。勝海舟は国内での騒擾は諸外国につけいる隙を与えるため、何としても戦を避けるべく交渉に当たり、万一、交渉決裂の際の江戸町民120万人を守るべく緻密な対策を講じて、官軍への引き渡しとなり、明治維新へと歴史が繋がっていくことに。1887年5月、伯爵となり華族に。その後も新政府の要職にあり、西郷隆盛、徳川慶喜の名誉回復にも尽力。
 1899年1月19日、77歳で逝去。10年若ければ総理大臣として、日本の舵取りをしていた偉大なる傑物がすみだの大先輩で有ることは私達の誇りです。

勝 海舟顕彰会
 勝海舟の研究の第一人者としての鵜沢義行日本大学名誉教授の講演会を機に、区内に勝海舟像を建立したいとの機運が高まり、2000年5月に「勝海舟の銅像を建てる会」が発足。 地道な募金活動と啓蒙活動により、勝海舟生誕180周年を記念する海の日の7月21日に区役所うるおい広場に太平洋を指差す勝海舟像の建立除幕式が執り行われました。「勝海舟の銅像を建てる会」が「勝海舟顕彰会」として廣田健史会長(写真左)、杉山正純実行委員長(押上在住・写真右)に引き継がれ、勝海舟の偉業を多くの方に知って頂くために毎年、海の日に勝海舟にゆかりあるイベントを開催しています。







Copyright(c) 2001-2004 Avenue, Inc. All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等の一切を禁止します。