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トップ−祝!墨田区誕生60周年(その1)




 2007年、今年は1947年(昭和22年)3月15日に向島区と本所区が合併、墨田区となって60年の節目の年です。10月20日(土)にすみだトリフォニーホールで記念式典が行われます。

すみだの歴史
 すみだに関する古い文献は、景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折りに荒波に遇い、妃のおとたちばなひめが荒波を鎮めるために自ら海中に身を投じ、みことがその遺品を集めて、浮洲の森に祀り、そこが立花1丁目の吾嬬神社となったと伝えられています。歴史の文献にはすみだのゆかりの地や人物がたくさん残され、その歴史を感じます。(遠い昔は紙面の関係で割愛を致します)
 江戸幕府開府/1603年(慶長8年)
 東京府の誕生/1868年(慶應8年7月、9月 8日、
         明治に改元)江戸が東京に。
 東京市の誕生/1889年(明治22年)5月1日。
 東京都の誕生/1943年(昭和18年)7月1日。
 本所区の誕生/1878年(明治11年)初代区
 向島区の誕生/1932年(昭和7年)東京市
  が35区に編成替え。
 墨田区の誕生/1947年(昭和22年) 3月15日。向島区と本所区が合併。
         公選により、初代区長は勝田菊蔵氏。
         区役所は横網、第2庁舎は東向島(現ユートリヤ)

戦争の歴史
 長い鎖国から目覚めて、日本は短期間で世界に伍するめざましい発展を遂げてきましたが、領土拡大、勢力の拡大は社会情勢にも大きな影響を及ぼしました。
 ・1899年(明治27年)/日清戦争
 ・1904年(明治37年)/日露戦争
 ・1914年(大正3年)/第一次世界大戦
 ・1941年(昭和16年)/太平洋戦争
 ・1945年(昭和20年)/敗戦
 1899年の日清戦争から敗戦までの46年間は、軍部、軍需産業が何よりも優先され、我が国産業の側面を担ってきた事は否めません。すみだに於いても、日清戦争を契機に工場建設が進み、我が国の産業革命の一翼を担う工業地帯となり、すみだから発祥した産業や大企業の数が往時の力を物語っています。

関東大震災! 東京大空襲!
 現墨田区の地域は度々の大火、水害等の災害の歴史があり、それを乗り越えるパワーある町でしたが、その歴史の中でも悲惨を極めたのは1920年(大正12年)の関東大震災と1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の東京大空襲でした。
 関東大震災では本所地域の95%が焼失、死者48,393人、向島地域でも367戸、412人が犠牲になりました。東京全区の89%が被害を受け、帝都復興に向けて大プロジェクトが作られましたが、それから24年後の1944年(昭和19年)11月29日本所区が初空襲を受け、以後度々の空爆、翌年3月10日の下町を襲った大空襲で本所・深川地区は全滅、その後も5月25日迄数回の爆撃により壊滅的な打撃を受け、本所区の人口は激減しました。

墨田区の誕生
 敗戦により、我が国はアメリカの占領下に置かれ、GHQに依る国体解体、再生への道を歩み始めました。
 1946年(昭和21年)新憲法、自治法が制定され選挙により、初代東京都知事に安井誠一郎氏が当選。(日本国憲法の施行は1947年5月3日)
 戦災により東京の人口分布に格差が生じたために、従来の35区を統廃合、昭和22年3月に22区に。その後、板橋区を分割して練馬区が誕生、23区となり、今日まで都内23区体制が続いています。
 東京都の区は「特別区」と規定され、法人格を持ち、自治権が確立されました。本所区と向島区は1947年3月15日に墨田区となり、旧本所区庁舎が墨田区の庁舎になりました。
 新区名は両区会で「墨田区」に決定。他には「隅田、吾妻、隅田川、江東」等も候補にのぼっていました。

・初代区長は勝田菊蔵氏
 首長が住民による直接選挙となり、初代の墨田区長は勝田菊蔵氏が当選(3・4期は自治法改正により間接(選任)選挙、
1974年に直接選挙に戻る)4期16年墨田区政を担い、山田四郎、山崎榮次郎、奥山澄雄、現山崎昇区長と5人の区長に受け継がれています。

・墨田の戦後
 焼け野原となった墨田区に、小中学校の校舎が再建、少しづつ、復興の兆しが見え始め、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争の特需景気で、区内産業は元気を取り戻し1960年(昭和35年)頃には23区で一番多い6,700余の工場が稼働、ものつくり、確固たる地場産業の歴史を持つ墨田区は好景気に沸き立ち、多くの人口を抱え、わが町を愛する人たちの気概に溢れ、戦後の荒廃から立ち上がり、下町人のど根性と人情豊かな暖かいまちは、活気に満ちていました。
 1970年代に入り、高度成長経済の負の遺産でもある大気汚染、地盤沈下等の公害問題が発生、汚れた川として、隅田川がその標的になり、規制強化による工場移転、廃業が続き、成長に陰りを見せ、工場跡地には団地、マンションが建設され、まちの姿が変わって行きました。
 オイルショックやバブル経済の破綻、人口減少と不況の波が襲いかかり、停滞の十数年を余儀なくされ、局面打開に、官民ともに取り組んできました。
 この状態は決して墨田区だけの問題ではなく、日本全体が抱える深刻な危機でもありましたが、中小零細企業のまちでもあり、その打撃は大きいものでした。……続く

第5代 山崎 昇墨田区長に聞く
 区長の任期は4年で、その任期を積み重ねると17期目が山崎 昇区長ですが、昭和22年に墨田区となってからは5代目となります。今年4月の区長選で再選され三期目となります。
 平成11年4月に山崎昇墨田区長が誕生。就任時の墨田区は財政危機の真っ只中で、区民の間では「墨田区は財政再建団体となってしまうのでは…」と心配され、23区で一番財政の苦しい自治体と言われていました。山崎区長は「財政の建て直し無くしては墨田区の明日は無い」と最優先で財政問題に取り組まれ、墨田区独自の財政再建策に挑戦、当時2,500人いた職員を2,000人に削減、箱物建設の凍結など、緻密かつ大胆な手法で、ようやく、財政危機を脱する事が出来ました。

ガバナンス(協治)
 財政問題が片付いた3期目からは、墨田区の5年後、10年後そして将来の有るべき姿を区民と共にに考え共に作り上げるために、平成17年度に策定した墨田区新基本構想を軸に行政と区民が絆を深め協力をして「わがまち すみだ」を作り上げるためにガバナンス(協治)という新しい概念に基づき、住んでいる人、働いている人、事業をしている人の最大公約数の方が納得でき、住みやすいすみだ作りが不可欠と強い決意で臨まれています。
 2011年には新タワーも完成、従来の墨田区とはひと味、ふた味違うまちに必然的に変わって行くでしょうが、区民にとって、この、千載一遇の機会をプラスに転じ、変わり行くすみだを見届けたいと、話される、自転車で区内を気軽に走る庶民派の区長です。
 山崎区長は現在「都区のあり方検討委員会幹事会」の座長をつとめ、道州制、特別区への事務・事業配分、23区の統廃合の検討等をまとめる重要な立場でもあります。区長ご自身は、統廃合によりすみだらしさの喪失を懸念、今の墨田区の姿を残したいと考えておられるそうです。





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